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西国分寺に「鳥芳」あり

駅前からマンション街が広がる、中央線で最も夜の早い駅・西国分寺の南口から徒歩2、3分。
小綺麗な木造二階建のこの店は、4時半の開店から客脚が途絶えること無く賑わっている。

焼き鳥は1本135円~。身は大ぶりで、軟骨、砂肝、ハツモトなどの歯応えが絶妙。
煮込みも人気メニュー。お浸しが揃っているのも、野菜不足になりがちな私としては嬉しい。
安く飲むなら焼酎セットがお得。地酒も種類は少ないものの、ハズレが少なかった。

客層はサラリーマン、OLグループやアベック、老人等様々で入りやすい雰囲気。
難点は7、8時台は混んでいて入れないこともあり、9時過ぎると売り切れの品が増えること。
L.O10時半。日曜祝日休。北口駅前には立ち飲み専門の姉妹店「芳一」がある。
# by funatoku | 2004-11-15 22:29 | 酒場・飲食店 | Trackback | Comments(0)

桂文珍東京独演会2004(11/13 有楽町朝日ホール)

桂文珍「世帯念仏」東京では小言念仏にあたる噺。シチュエーションは同じだが、
連発されるギャグは恐らく殆んどオリジナルなのではないか。まるで別の噺である。
サゲは念仏を唱えていた男が頓死し、暗転の後で文珍が黒枠から顔を出すというもの。
桂楽珍「手水廻し」文珍曰く、楽珍が彼女と同棲していた時、内緒にしていた両親が
突然訪ねて来た。慌てて両親に向かって「妹です」。「その面白さが何故出ないのか…」
桂文珍「悋気の独楽」東京と基本的には同じ内容だが、笑いの量が遥かに多い。

江戸家まねき猫は枕草子第一段の季節に合わせた趣向。ただ鹿の真似は元が分からんよ。
桂文珍「七度狐」見台に鳴り物入り。上方らしい噺を東京で演るサービス精神でしょうね。
二人連れの旅人が狐に七回騙される噺。無駄な描写が省かれていて、ギャグも控え目、
割と長い噺にもかかわらず、二段落ちのようなサゲまで、本筋だけで大いに笑わせた。

間を空けるのを嫌うかのようにギャグを入れてくるのが文珍流。中にはつまらない
ダジャレも少なくないのだけれど、押し引きが上手いので後味は脂っこくならない。

生で10回も聴いたことが無い上方落語をここに最初に書くとは、東京落語ファンとして
我ながら意外だが、全国区の文珍師匠を上方落語という枠組で語るのは間違いなのかも。
そういや、会場にはバリバリの東京落語派であろう山藤章二先生の姿もありました。
# by funatoku | 2004-11-14 22:58 | 落語 | Trackback | Comments(0)

モーヲタトークライブ04秋(11/12 新宿ロフトプラスワン)

ビバ彦司会。雑誌「BUBKA」グループによるトークショー。私が見るのは二年ぶり二回目。
冒頭より飯田卒業話(イワキリ他)、ベリーズ工房話(小板橋他)、松浦話(宇多丸他)と進み、
お待ちかね(勿論私にとっての)。掟ポルシェ、ホリケン。によるメロン記念日トーク。

まず6月のメロン記念日イベントでDJとして共演した掟氏より舞台裏が明かされる。
最初はメロンと同じソニー系所属のrhymester宇多丸氏にオファーがあったのだが、
都合で行けない宇多丸氏の推薦によりメロンヲタとして知られる掟氏起用となった。

そして、実際に会ってみた四人の印象は…、
柴田あゆみ:屈託の無い、年齢相応の明るい子。余り深くは考えないタイプ。
斉藤瞳:考えながら行動する。周囲へ気配りも出来る。プロデュース能力は高いはず。
村田めぐみ:素頓狂な子。帰ってくる答えが突飛。
大谷雅恵:ステージの弾けっぷりとは正反対で、声も小さく人見知り。少し心配な面も。
例えて言えば、「村田は病院に行かない患者。大谷は病院に行く患者」とか。

柴田はソロ要員だった。昔事務所の電話番も。山崎会長は出っ歯(平家みちよ、柴田)好き?
握手会の時間が短か過ぎると訴えたことがある。大谷村田はお笑い「次長課長」が好き。

そして「アイドルはセックスと隔絶しているべき」という掟氏の持論からメロンの今後へ。
「年をとるほど、年を感じさせちゃいけないのに、“大人”“色気”にカテゴライズ
されてしまった。新曲“シャンパンの恋”などは、誰にも向かっていない。
メロンに期待する曲はパンク。つんくが書くロックにはタメが無いんですよ」

最後に「でも、性格がいいと、アイドルには向かないんですよね…」とポツリ。
# by funatoku | 2004-11-13 11:17 | メロン記念日 | Trackback | Comments(3)

藪下史郎、荒木一法編著『スティグリッツ早稲田大学講義録』光文社新書

かつて最も信頼された経済学の教科書は、P・A・サムエルソン「経済学」(岩波書店)だった。
今はジョセフ・スティグリッツの教科書(東洋経済新報社)が、その位置を占めているようだ。

自由競争下では「神の見えざる手」によって需要と供給のバランスがとれるとするのが、
経済学の祖アダム・スミス以来の古典派経済学から現在の新古典派経済学の考え方。
スティグリッツ教授は「“見えざる手”は見えないのではなく、存在していない」と反論する。
二者の「情報量」が違う場合には、公平な市場とは呼べないというのである。
例えばある商品については大抵、売り手の方が買い手より圧倒的に情報量が多く、
逆に保険会社は契約者がどのような運転をするドライバーなのかについて情報を持たない。
(ちなみにスティグリッツは情報の経済学理論で2001年のノーベル経済学賞を受賞)

で、ちょっと前にしきりに「グローバル・スタンダード」などという言葉が唱えられたけど、
先進国、特にアメリカと発展途上国では情報量が違うんだから公平とは言えないとして、
“グローバリゼーション”と、それを推進しているIMF(国際通貨基金)を厳しく批判する。
(山形浩生氏のHPで、スティグリッツによる別のIMF批判の翻訳を読めます。もうボロクソ)

講演であるせいか私からすると難解な部分もあったが、編著者による講演の解説(第二部)、
スティグリッツ思想のコンパクトな解説(第三部)がついており、なかなか便利。
# by funatoku | 2004-11-11 14:03 | 文庫・新書 | Trackback | Comments(0)