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竹内洋『大学という病』(中公文庫)を読む

(mixi日記から転載)

 昭和前期の東京大学経済学部の紛争と人物像を描いた歴史ドキュメント、というと硬い内容を想像されてしまいそうなのですが、読んでいくうちに「これは『文学部唯野教授』(筒井康隆)だ」と気がつきました。或いは東大版「三国志」、まあスケールは小さいけどね(笑)。しかもこれらは全部実話なのです。以下、例によって付箋代わりのメモ。

*話は昭和3年、経済学部の大森義太郎という28歳の助教授が退職するところから始まる。その背景は二つ。まず当時、高校生や大学生の間でマルクス思想がブームになっており社会問題化していた。大森はマルクス主義活動家でもあったのである。
 二つ目は、大森の執筆活動。先輩教授の土方成美をこっぴどくこき下ろしたりして、反感を買っていた。結局、大森は自ら辞表を提出する。
*大森は筆が立ったので、マスコミに積極的に文章を発表し始める。当時、経済学部には何十年も同じノートを読み上げていたり、休講ばかりの古参教授がいて、大森はこうした内情を告発したのだが、東大や大学教授の権威が今とは比較にならない時代だけに大変な人気を博した。
*東大経済学部が法学部から独立したのは大正8年だが、独立の立役者だった左派の高野岩三郎教授(戦後、第5代NHK会長)に対抗するために、保守派の若手・土方成美教授と、リベラル派(自由主義派とでもいうべきだが、ここでは便宜的に中間派と呼んでおく)の河合栄治郎教授が結託して多数派を構成した。
 これが経済学部の派閥の始まりで、就任早々に辞職した高野教授の一派、つまり左派マルクス陣営は少数派へと追い込まれてしまい、例えば当時助手だった左派の美濃部亮吉(のちの東京都知事)は助教授昇格への望みを絶たれている。
 この時点ではこんな感じ。
(左派・マルクス派)大内兵衛 (中間派・自由主義派)河合栄治郎 (右派・反マルクス派)土方成美

*その後も、多数派による支配は続き、昭和8年には土方、11年には河合が経済学部長になる。昭和初年のマルクスブームの頃に河合の人気は最低だったが、ブームが去るとリベラルな教養主義を掲げてジャーナリズムで活躍し、教育熱心な河合の人気は高まるようになっていた。学部長に就任した河合は、直弟子の大河内一男(戦後、東大総長)、安井琢磨(日本の近代経済学の先駆者)、木村健康らを助教授に昇格させようと画策する。
*ところが、この人事は年功序列を大きく崩すものであったため、多数派に亀裂が生じて河合派と土方派に分裂。そして、何と反マルクス派の土方は中間派の河合を排除するために、マルクス派(少数派)の大内兵衛(戦後、法政大学総長)と結託してしまうのである。
 自分が提案した人事案が否決されたため、河合はわずか一年で学部長の座を去り、河合派の教授達も一人を除いて土方派に鞍替えしてしまう。残った一人は講義で何を言っているのかもよく分からない、学内でも有名な“無能教授”だったとのこと。また、土方派に寝返った荒木光太郎の妻と河合は不倫関係にあった。いや何だかもう、ドロっどろ。
*河合に代わって学部長になった土方は国家主義を標榜して保守色を強め、一度は組んだマルクス派の追い落としにかかり、まず矢内原忠雄(戦後、東大総長)を辞職に追い込んだ。そして、いわゆる人民戦線事件で検挙された大内兵衛を休職させようとしたが、これが勇み足だった。
 休職させるのは起訴されてからでも遅くないのに、土方は功を焦ったのか大内休職を強行しようとして教授会で否決されてしまう(結局、大内は起訴されて休職となる)。今度は中間派の河合が左派と手を組んだのである。土方も学部長を辞任し、後任には左派の舞出長五郎が選出される。

*昭和13年、近衛文麿内閣の文部大臣に陸軍大将の荒木貞夫が就任し、大学人事に積極的に介入する姿勢を見せた。また、貴族院などをバックにつけた右翼思想家・蓑田胸喜がリベラルな帝大教授達を執拗にバッシングするようになった。
 土方は今度はこうした勢力と結託して、著書が発禁になっている河合栄治郎の追い落としを図るのである。そして、河合を辞職に追い込むのだが、ここで東大総長に就任したばかりの平賀譲(海軍中将)が離れ業を見せる。「喧嘩両成敗」ということで、土方も河合と同時に休職させてしまうのだ(平賀粛学)。土方はやり過ぎたのである。
*そして、土方派、河合派の教授連も辞表を提出するのだが、全員が辞めたら学部が崩壊してしまうため、平賀は慰留に努めて何人かが撤回した。例えば河合派では、山田文雄(上記の“無能教授”)と木村健康が辞職し、大河内一男安井琢磨が残留したため亀裂が入り河合は後者二人を破門した。
*戦時中の昭和19年、在野の大森義太郎河合栄治郎が病死する。この頃の経済学部長はかつて土方派の参謀格だった橋爪明男。内務省に学内情報を流していたスパイと言われる人物で、人民戦線事件に連座した大内兵衛有沢広巳(のち法政大学総長)らに無罪判決が出たものの、橋爪は彼らの復職を認めなかった。
*そして、翌20年に終戦。橋爪学部長や土方派残党の難波田春夫(のち早大教授)らが辞職し、大内、矢内原、有沢、木村らが復職する。その後、矢内原、有沢、脇村義太郎などかつての少数派が、学部の実権を握り経済学部長職を引き継いでゆくことになる。
 河合がもし存命ならば、当然復帰していて、総長になった可能性が高いというのが著者の意見。別の論者は、戦後河合のリバイバルブームが来ており、存命なら片山哲ではなくて河合が社会党委員長に選ばれたはずと指摘している由。つまり河合首相が実現していたかも知れないのだ。
*しかし、話はこれでめでたしでは終わらない。昭和43年、大学解体を叫ぶ全共闘の左翼学生らに吊るし上げられたのは当時東大総長を務めていた大河内一男なのである。あたかも戦前にリベラルな教授が右翼学生に吊るし上げられたように。引退していた大内兵衛も全共闘学生から叩かれた。戦後、中央大や独協大教授を務めていた土方成美はどういう思いでそれを見ていたのだろうか…。

 イデオロギー闘争と権力闘争が重なり合っているために、凄まじいことになっていますねえ。経済学は文学や法学に比べると新しい学問で、イデオロギーや流行に左右されやすいという性質も、この抗争に輪をかけたのでしょう。
 また、戦後の東大経済学部はマルクス派が長く多数派になっていたために、近代経済学への進出において完全に遅れをとります。日本の近代経済学は河合門下出身ながら、東大に残れなかった安井琢磨熊谷尚夫(ともに大阪大学教授)らによってリードされるのです。私が学生の頃は、お二人の名を冠したテキストがまだ現役で使用されていましたし、安井の弟子である伊達邦春先生の講義も受けました。そういう意味では、この本の出来事は単なる過去ではなくて、現在に続く歴史の一環だと感じられました。
 高野、河合、大内、矢内原らの名前は高校の日本史教科書レベルでお馴染みでしょうが、別に名前を知らなくても「三国志」として楽しめるんじゃないでしょうかね。
 ミニ知識。土方成美の孫が、「牡丹と薔薇」の女優・小沢真珠(本名:土方典子)。ツンデレは祖父譲り?(笑)
by funatoku | 2007-10-19 20:52 | 文庫・新書 | Trackback | Comments(0)


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