カテゴリ:一期一会( 9 )

今村仁司先生のこと

(mixi日記からの転載)

 迂闊にも思想史家の今村仁司先生が今年5月に亡くなっていることを知りませんでした。新聞広告で「今村氏最後の訳業」という惹句を見て気づいたのです。最近は現代思想系の本を繙く機会がめっきり少なくなってしまい、情報に疎くなっていたようです。
 今村仁司氏は1942(昭和17)年、岐阜県生まれ。京都大学大学院を経て、東京経済大学教授。マルクス研究から出発しましたが、マルクスの読み直しを提唱した構造主義者アルチュセールを翻訳したあたりから対象領域が広がり、フランス現代思想の紹介者として知られるようになりました。80年代以降は現代思想の成果をふまえつつ、社会科学の再生を目指した哲学書を多く刊行する一方、大部な翻訳に取り組んだり、晩年は清沢満之を研究するなど、思想界のスターと言える存在でした。

 多くの著作を持つ哲学者・思想家には二つのタイプがあると思います。一つは、若い頃は難解な本を書いていたのに、年をとるに従って読み易くなってくるタイプ。もう一つは、若い頃はマスコミ向けの軽い文章なども書いていたのに、年をとってくると文章が晦渋になってくるタイプ。
 前者は例えば文化人類学者の山口昌男氏。初期の代表作「文化の両義性」「歴史・祝祭・神話」などに比べると、近年の明治ものなどはとても読みやすい。若いうちに代表作を書いて、後年はその思想の啓蒙書を書いたり、他分野に自分の理論を応用するということで、いわば演繹法的といえます。
 今村氏は後者に属するでしょう。マスコミで派手に活躍するということはありませんでしたが、フランス現代思想を案内する初期の本に比べて、晩年になるにつれ抽象度が増しているようです。このタイプは興味の向いたことをあれこれ書いているうちに、それらを総合する方向に向かうわけで、帰納法的といえます。
 両者を比べると、前者は自分のやりたい事の本筋が見えているのに対して、後者は書きながら思想的格闘をしているわけで、精神的にはなかなか辛いのではないかと想像されます。今村氏がそうだったと断言は出来ませんが、「暴力」「権力」「労働」「貨幣」など一見すると関係無さそうな各論をテーマに研究しつつも、これらを統合する思想を模索していたのではないかと思います。

 ところで、私は大学時代に今村先生の「社会思想史」を受講しました。私は本音では文学部に行きたかったのに、経済学科などという無粋なところに行ってしまった人間なので、せめてなるべく歴史や哲学寄りの科目を多く履修するようにしていたのですが、ある年たまたま非常勤講師としてウチの学部に出講した今村先生の講義を受けられるのは楽しみでした。
 初めて見る今村先生は、丸顔に分厚い眼鏡をかけていて、何だか田舎の市役所の課長さんのようでした。難しい思想書を書いているのでおっかない先生かと思いきや、柔らかい関西弁でくだけた口調で話すのもちょっと意外で、私はすっかりファンになってしまい、出席も取らないのにせっせと通いました。講義テーマは「労働」に関するもので、「働くということは何だろう」と思っていた当時の関心にも合っていました。
「“現象学的還元”というのは、要は“ワッと驚くこと”なんです」
「若い研究者がフランスの新しい思想書を持ってきて、『先生、これ知ってますか』なんて言うんやけど、そういうのには『知らん』と言ってやるんです。新しいのを見つけてきて発表して喜んでるだけじゃあね……、(ちょっと声を潜めて)まあ、僕も時々やるけど」
「僕を早稲田に呼んでくれたのは内田満先生(政治学者、こちらも今年亡くなられた)なんですが、この内田説は間違いですね(笑)。ハンナ・アレントも言ってますよ」
 随分書くものとイメージが違うんですね。今村先生の講義を本にしたら、面白い哲学入門になるんじゃないかと思ったのですが、残念ながらそういう本は刊行されませんでした。享年65。やはり早過ぎました。わずかな縁があったかつての学生としては、今後も折に触れて今村さんの本を読み返していこうと思っています。

 さて、おすすめ三冊はなかなか選びにくいのですが、現代思想の解説書としては「現代思想のキイ・ワード」(ちくま文庫)が分かりやすいでしょう。「労働」については何冊か書かれていますが、「近代の労働観」(岩波新書)が一番まとまっています。90年代のものは「近代性の構造」(講談社選書メチエ)あたりが入りやすいですかね。
 「マルクス入門」(ちくま新書)は充実した内容ながら、新書版入門書という枠組みを逸脱していて初心者にはかなり難解なので、心してかかった方が良いかも。
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by funatoku | 2007-09-25 23:59 | 一期一会 | Trackback | Comments(2)

杏里さんと“共演”した想い出(笑)

アンコールで電撃発表!ANRIがリー・リトナーと結婚

「オリビアを聴きながら」「悲しみがとまらない」などのヒット曲で知られる歌手、ANRI(43)が世界的に活躍するフュージョンギター界のカリスマ、リー・リトナー(52)と結婚することが21日、分かった。20日によこすか芸術劇場で行ったコンサートツアー初日公演でファンに「婚約しました!」と報告した。ANRIは再婚。

 突然の発表だった。ファンもびっくりだ。衝撃の発言は、コンサートのアンコールで飛び出した。15曲目の「Sky Diver」を歌い終わったANRIは「リー・リトナーさんと婚約しました」とファンに笑顔で報告した。
 リトナーは、昭和50年代に起きたフュージョン人気の立役者。主にスタジオミュージシャンとして、著名なアーティストと仕事をしている。ギタリストとしての才能は高く、人間としても柔和な笑みが印象的な穏やかな人物という。
 平成12年11月にリリースされたANRIの洋楽カバーアルバム「SMOOTH JAM-Quiet Storm-」の制作の際、プロデューサーと歌手として知り合った。同アルバムは、ANRIの美声を最大限に生かしたリトナーの手腕が高く評価された。
 その後、ANRIがリトナーのコンサートに参加し、リトナーのギターに合わせ歌を披露したことも。アーティストとして互いに尊敬しあい、徐々に愛を深めていったようだ。

 ANRIは63年6月に当時アパレルメーカーの社長だった男性と結婚。男性の会社が倒産し多額の借金を抱えたことをきっかけに、2人の仲がうまくいかなくなり、平成5年9月に離婚した。一方のリトナーも28歳の時に結婚し、子どももいるが、離婚している。
 お互いに再婚同士。辛い経験を乗り越え、大人の愛を育んできたANRIは同コンサートで「もう1回お嫁に行ってもいいかな、と思いました」と女心を照れくさそうに吐露。そんなANRIに温かい拍手が送られ、「おめでとう!」の声が飛んだ。
 挙式、入籍などの詳細については語らなかったが、順調に行けば、年内にもゴールインとなりそうだ。
(サンケイスポーツ) - 5月22日8時4分更新

私は芸能人の結婚・離婚といったニュースには殆ど関心が無く、最近報じられたアナウンサー
同士の結婚話にいたっては、何故それがニュースとして扱われるのか未だに理解できません。
しかし、このニュースにはいささかの感慨があります。
というのは、私はかつて杏里さん(いつから“ANRI”になったのかな)と“共演”したことがあるのです。
しかも、その時に私達が演奏したのはリー・リトナーの出世作「キャプテン・カリブ」と、
アルバム「RIT」の収録曲である「ミスター・ブリーフケース」だった
のです。

種明かしをすると、私は大昔ある大学(これは早稲田ではありません)のフュージョン・バンドに
数ヶ月間在籍していたことがあるのですが、そのバンドが参加した学生の合同コンサートに、
杏里さんがゲストに来て下さったのです。場所は渋谷の「エピキュラス」というホールでした。
私は前座見習で、あちらは大真打だった訳ですが、ま、同じ舞台に立ったことにゃ違いない(笑)。
この2曲を演奏することを提案したのは、大のリトナー・ファンである私だったと記憶しています。
ン十年前に、未来の旦那様とそういう“接点”があったとは、杏里さんも覚えてないでしょうねぇ。
あたしゃ、何だか仲人になったような気分だ。違うか。ともあれ、おめでとうございます。

ところで、その時に杏里さんの迫力あるヴォーカルもさることながら、キーボード担当だった
私はプロのキーボード奏者の音の良さに衝撃を受けました。楽器は各自が持ち寄ったのですが、
音響システムは同じなのにもかかわらず、出てくる音の“抜け”が全く違うんですよ。
勿論テクニックや才能がまるで違うということは、改めて言うまでもありませんが、
電気楽器を使う限り、音は機材に左右されるということを、この日に痛感させられました。
私の関心がフュージョンからアコースティックな4ビートに移っていった契機でもあったのです。
その後、キチンとジャズ・ピアノを習いたいと思いつつ、今日まで来てしまいましたが…。
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by funatoku | 2005-05-23 18:31 | 一期一会 | Trackback | Comments(2)

矢野誠一さんにお目にかかる

「志ん生のいる風景」「円生とパンダが死んだ日」「落語家の居場所」「三遊亭円朝の明治」など
落語関係の著作も多い演劇評論家の矢野誠一さんに、先日初めてお会いした。
「評論家」というと論客タイプを想像するし、百戦錬磨の芸人さんたちとの付き合いも多い筈だが、
実際にお会いした矢野さんはシャイな東京・山手人といった風情の、学者タイプの方だった。

最近の落語をお聞きになっているのでしょうか。
「いやー、正蔵披露にも行ってなくて…。何年か前までは、毎日新聞で寄席評を書いていたので、
見に行っていたんですけど」
では、最近はもっぱら芝居(歌舞伎)ですか。
「年200回位行ってます。歌舞伎の賞の選考委員をやっているので、見ないで選ぶわけには
いきませんから。でもその分執筆時間が無くなってしまうんですよ」
うーむ、歌舞伎は最近私の方がすっかりご無沙汰で、残念ながらそちらのお話は伺えない。
歌舞伎と言えば戸板康二先生とは長いお付き合いですね。
「押しかけ弟子みたいなもので…。“先生”にあたる人です」

先生の頃の麻布高校は多士済々ですね。
「新制と旧制の入れ替わりの時期で、小沢昭一さんやフランキー堺さん、加藤武さんたちは
旧制中学を卒業した後、新制大学に入るまでに間があったんです。私が麻布に入学した時、
彼らは卒業生専用部屋に来ているんですが、教師達は“余りあそこに近づかないように”と(笑)。
でも文化祭は彼らが仕切っていましてね」
その後はあまり作家や俳優が出ていないようですが。
「麻布の先輩・吉行淳之介さんには、“いつまでも一番後輩だなあ”と言われていましたが、
ある時“後輩が出来たぞ”。それが山下洋輔さん。あと川本三郎さんも麻布ですね。」

最近は落語関係のお仕事は?
「今、講談社から出ている志ん生のDVDシリーズの全巻解説を書いていて、聴き直しています。」
志ん生さんの動画は残ってないのですか?
「3本だけですね。今までの音源についても全て調べ直してみたら、NHK音源とされていたのが
そうではないことが分かったりして、NHKが慌てたみたい(笑)」
志ん朝さんは、早過ぎましたね…。
「…ええ。榎本滋民さんがとても落ち込んで、もう落語に情熱を失ったというようなことを言ってました。
亡くなってから出た落語辞典を読むと、榎本さんはよく勉強していたんですねえ」
私は意識的に同世代の落語家を追っかけるようにしているんです。長い趣味にしたいもので。
「それはいいですね。むこうも上手くなるけど、聞き方も成長してゆきますから…。
私にとって文楽や円生は仰ぎ見る存在でしたが、世代が近い談志や柳朝とはよく飲んだり、
議論もしました。大きく影響を受けたのは彼らからなんです。」
その世代で一番一緒に飲んだのは?
「柳朝かなあ。色川武大さんも書いていたけど、高くはないのにセンスのいい店で飲んでいましたね」
そうなるまでには相当授業料をつぎ込んだのでしょうね(笑)。色川さんとは長いのですか。
「私が高校出た頃からですから長いですね。夏堀正元さんを通して知り合って、あちらが8歳年上。
アメリカ映画は端役まで詳しくてねぇ。ああいう迫力のある人もいなくなりましたね」
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by funatoku | 2005-04-16 21:12 | 一期一会 | Trackback | Comments(0)

童門冬二さんの時間の使い方

不思議で仕方がないのだ。
童門さんは現在連載を20本抱え、月に講演を15回ほどこなす南船北馬の日々。
夏までには書き下ろしの予定が数本あり、そのうち一本を書き上げたばかり…。
しかし、決して仕事一辺倒の人ではなく、映画、落語、民謡をはじめとして趣味も多彩。
さらに、そんな合間に私なんぞをお酒に誘って下さったり…(しかも私一人だけで)。御年77歳。
かつて都庁勤務の頃、多忙な局長職にありながら、テレビドラマの脚本を100本以上書いたという。

「地面を見ないんです。高いところに立って、そして上を見る。下を見たら大変だから(笑)。
講演も行くのも那覇まで飛行機で2時間、大阪まで新幹線で3時間。
距離より時間で考えるとそんなに変わらないですよ。
そして、嫌な仕事から先に片付けること。」

つい、後回しにしちゃうんだよなぁ。そしてギリギリになったり、締め切りを過ぎてしまう。
ずーっと気にはなっているのに、結局遅れて誰かに迷惑をかけてしまうことになったり…。

日本中に講演に行っても、その日の最終で帰ってきてしまうそうだ。
新幹線なら新横浜から目黒の自宅までタクシーで帰ってくる。
「朝の時間をとられるのは困るんですよ。早朝に書いているので」

遥かに暇人の癖に、時間が無いとボヤいている私には、爪の垢を煎じて飲む資格すらまだ無さそう。
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by funatoku | 2005-04-06 19:49 | 一期一会 | Trackback | Comments(9)

中村彰彦さん(作家)に故・宮脇俊三さん(作家)の思い出を伺う

『名君の碑 保科正之の生涯』(文春文庫)『鬼官兵衛烈風録』(角川文庫)など会津ものを
中心に骨太の歴史小説を発表し続け、昨年暮には大作『落花は枝に還らずとも 会津藩士
秋月悌次郎』(中央公論新社)を刊行したばかりの直木賞作家・中村彰彦さん。

先日、何年かぶりで中村さんと、武蔵野市内でゆっくりお酒を飲む機会があったので、
私は2003年2月に亡くなった紀行作家・宮脇俊三さんの思い出をお尋ねすることにした。
鉄道ファンから敬愛された宮脇さんと、中村さんの接点はちょっと分かりにくいかも知れない。
種明かしをすると、中村さんは元々文藝春秋の編集者時代に宮脇さんの担当だったのだ。

宮脇さんは一人旅もしくは編集者との旅を好んだが、後者の紀行文は同行の編集者との
会話が文章の見事なスパイスとなっている。ただ編集者の側は結構緊張しているのでは
ないかと思われる。というのは、「先生と同行している」「失敗するとネタにされる」なんて
こと以上に、何しろ宮脇さんは中央公論社で「日本の歴史」「中公新書」等を成功させた
“伝説の編集者”なのである。中村さんが関わったのは、『失われた鉄道を求めて』
(89年、文藝春秋刊。現在は角川書店の『宮脇俊三鉄道紀行全集3』に収録)である。

この本で宮脇さんは、それまで堀淳一さんぐらいしか書いていなかった廃線歩きを
初めてテーマとして取り上げた。そしてこの本の同行者“加藤君”こそが中村さんである。
この本で“加藤君”は廃線跡を歩いていて、しばしば遺物を発見して宮脇さんを驚かせたり、
現地でも抜群の行動力で取材して回り、「さすが週刊誌記者出身」などと感心させている。
実は中村さんも、担当する某有名作家が歴史小説を書く時に、本人が見つけられなかった
史料を探し出して段ボール箱で送って驚かせた、というような“伝説の編集者”だったのだ。

この作品以降、宮脇さんはそれまでの鉄道紀行に加えて、『古代史紀行』『戦国史紀行』
といった歴史ものへも作風を広げていくのだが、この本の取材を通して若き歴史作家から
刺激を受けたことが契機だったと解釈しても、そう間違いではないだろう。
また95年から刊行されて10巻を数えた編著書『鉄道廃線跡を歩く』(JTB)シリーズは、
“鉄道廃線ブーム”を巻き起こしており、現在もこのジャンルのバイブル的存在である。

ところが、こうした契機を作った中村さん自身は鉄道ファンでも、まして廃線ファンでも
ないのである。中村さんのお宅は私が育った場所に近い(お子さんは同じ小学校)のだが、
「何だかウチの近くにも廃線跡があるんだって?」
「あります!戦後一時、緑町に国鉄スワローズの球場があって、その引込み線ですね。
子供の頃にあの廃線跡を探検したのが、私の鉄道趣味の原点なんですよ」
そのうちこの廃線跡を30ウン年ぶりで歩いてみて、このブログでも紹介したいと思います。

宮脇さんは、“加藤君”いや、中村さんが執筆に専念するため文春を退職した時には心配
して角川書店の編集者を紹介し、現在に至るまで中村さんの本も角川から多く刊行されている。
取材旅行の時は夜、一緒に酒を飲みながら宮脇さんの話を聞くのが楽しみだったとのこと。
「(亡くなったのは)76歳。最後の方は老化が早くて驚きましたよ。足が弱ってからは、
あんなに旅行好きだったのに、旅行にも全然行かなくなっちゃって…。
でも、作家としては思い残すことは無いんじゃないかな。全集まで出たんだから」
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by funatoku | 2005-01-25 21:44 | 一期一会 | Trackback | Comments(0)

筑波常治先生(元・早稲田大学教授)

筑波常治先生はいわゆる“名物教授”であり、他学部の学生の間でも有名だったようだ。
科学評論家として多くの著作を発表していたこともあるが、服装が大変特徴的だったのである。
毎週必ず緑色なのだ。背広が緑、コートが緑、ワイシャツが緑、ネクタイが緑、鞄が緑…。
徹底しているのだ。コーディネートは変わっても、とにかく基本は緑色。
先生は痩身白皙で着こなしも良く、なかなか似合っておられたのだが、最初は驚く。

ある時、大学に提出する書類に「教員の推薦」が必要なことがあって、私は筑波先生に
お願いしようと思い、講義が終わった後でうかがうと快く引き受けて下さった。
万年筆を取り出しサインをすると、インクは鮮やかな緑色…とここまでは予想の範囲内だが、
続いて印鑑を押したのを見て度肝を抜かれた。何と朱肉ならぬ緑肉だったのである。

ちなみに、歴史好きの学生以外にはそれ程知られていなかったと思われるが、
先生は山階宮家から分かれて、皇籍離脱した筑波侯爵家の出身なのである。

卒業後、数年して筑波先生にお目にかかる機会があったのだが、先生は緑色の背広に
ミッキーマウスのネクタイでいらしたので、これ幸いと“緑色”について質問することにした。
「単純に好きなんです。(生物学専攻なので)自然に関係があるのかと訊かれたりしますが、
好きなだけなんです。昔は緑を着たり着なかったりしていたんですけど、ある時研究室の
前で私を待っていた学生が、たまたま緑を着ていなかった私が前を通ったのに、
私に気付かないということがありましてね。それ以来、意識的に着るようにしました」

さらに、私は以前からの疑問をぶつけた。「先生、お住まいは武蔵野市緑町なんですね」
「あれは、前から住んでいたら、地名の方が緑町に変わったんです」

私が受けたのは教養の「自然科学概論」。内容は進化論を中心にした生物学史だった。
先生は東北大学農学部で作物育種学を専攻するも、大学院のころから「外れ始めて」
歴史に関心を移し、その後は生物学史、日本農学史などを研究テーマにしている。
雑談した時にも「日本史の中の忘れられた人物」についての話題になった。

まず、名前が挙がったのは幕末薩摩藩の小松帯刀である。西郷隆盛、大久保利通ら
薩摩藩の維新の功臣は軽輩の出身ばかりなのだが、小松だけが家老の家柄なのである。
「でも、明治三年に小松帯刀が若死すると、薩摩派は扇の要が外れたようになってしまう。
小松の影響は大きかったと思うんですが、その視点で書かれたものはありません」
そして次に話題は近衛文麿の息子でありながら、徴兵されて謎の死を遂げた近衛文隆へ。
「お父さんより傑物だったようです。生き残っていたらどうなっていたでしょうか」
こちらはその後、西木正明さんの『夢顔さんによろしく』(文春文庫)という力作が書かれた。

筑波先生は2001年3月に定年退職なさっている。今後の一層のご健康を祈りたい。

2006年8月14日追記
この夏話題になっている、いわゆる「富田メモ」の影響で筑波先生の名を聞くことになりました。
公開されたメモの中で「筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司が~」
の「筑波」こと靖国神社の筑波藤麿宮司は、筑波先生のお父上なんですね。
筑波先生も「(筑波藤麿宮司)本人には(A戦犯を)祀る気はなかった」とコメントなさったようです。
(「文藝春秋」18年9月号 p118 秦郁彦氏の発言)
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by funatoku | 2005-01-13 21:12 | 一期一会 | Trackback | Comments(0)

童門冬二さん(作家)

目黒区内で会食(というかご馳走になったわけですが…)。

「東芝の創業者は、からくり儀右衛門というからくり人形の名人なんですよ。
久留米の出身なんだけど、鍋島閑叟に技術力を買われて佐賀藩に行くんです。」
-すると幕末の肥前藩の飛躍に一役買っていたかも知れないですね。
「そうなんです。彼がいなければ、薩長に互していけなかったかも知れない。
江戸末期、加賀の豪商・銭屋五兵衛の下にも大野弁吉というからくり師がいるんです。
五兵衛が刑死した後も、明治まで生き残った。最近、金石に記念館が出来ました。
愛知県では祭の山車にからくり仕掛けが多いんですが、藩が技術者を集めた影響です。」
-昔の“プロジェクトX”みたいな話がありそうですね。
「同じですよ。いままでは歴史ものの主人公は政治家ばかりだったけれども、
最近は技術者も注目されるようになってきています。結果が分かりやすいしね。」
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by funatoku | 2004-11-25 22:22 | 一期一会 | Trackback | Comments(0)

和泉元秀師(狂言和泉流)

昔、ふとした成り行きで狂言師・和泉元彌さんの父・和泉元秀さんと雑談したことがある。
板橋にある稽古場の一角の応接間で、差し向かいで出前の寿司をつまみながら。

「狂言とは神に奉納するものなんです」

「よく、学者などが家伝の技術書のようなものを見せて欲しい、と言って来たりする。
しかし、奥の巻を開いてみたらつまらないことが書いてあった、というようなもので、
大事なことは代々口伝で伝わってきているのです」

なかなかの論客ぶりだった印象は記憶に残っているが、
若造の悲しさ、突っ込んだ質問は出来なかった(急なことで準備もしていなかったけど)。
それから確か半年もたたないうちに五十代の若さで急死されたはずである。

ところで、その時あの和泉節子さんとはお話し出来なかったのも、今思うと残念だなぁ。
私が稽古場にお邪魔している間、ずーっと仕事らしき電話で話し続けていたのである。
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by funatoku | 2004-11-10 21:06 | 一期一会 | Trackback | Comments(0)

鈴木敏文さん(イトーヨーカドー、セブンイレブン会長)講演

流通には全く門外漢なのだが、某所で講演会を聴く機会に恵まれた。

先日の新潟中越地震の第一報を鈴木さんは自宅で聞いた。
会社に連絡したところ、現地からの報告は特に無いということだった。
「情報が無い」というのは非常事態だと判断してすぐに出社し、
取り敢えず200万以内で隣接する群馬、長野で至急炊き出しを始めるように指示した。
(金額を決めないとスタッフは動けないし、無駄に終わっても支障が無い範囲)
ところが道路の状況が分からないし、救援物資の到着は明日昼頃になると幹部が言った。
ここに到って鈴木さんは一喝。
「地震発生は6時前であり、ほとんどの人は夕食前のはず。
明日の昼に着くというのでは2食抜くことになり、救援の意味が無い」
結局夜中に到着したそうである。
「災害の初期にはマニュアルは役に立ちません。
役所の対応が遅れたのはマニュアルがあるからです」

セブンイレブンで、アイスクリームは坪単価が悪いからやめたいと言う幹部がいた。
確かにアイスクリームそのものの売上は年々減っていた。しかし、ニーズが無い筈はない。
アイスクリームは子供の食べ物という先入観があったのではないかと考えて、
大人向けに2~300円台のアイスクリームを自社開発してみたところ、これが好評。
現在では全国のアイスクリーム市場の1割をセブンイレブンが占めている。
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by funatoku | 2004-11-05 18:28 | 一期一会 | Trackback | Comments(0)