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立川談春独演会(7/2 横浜にぎわい座)

立川志雲「初天神」 初めて見るが立川流では珍しい上方落語家。
この会は普段開口一番が無いが、談春師から3日前に電話をもらい急遽出演とのこと。
初天神は東京でもお馴染みだが、こちらはなかなか天神様に出かけずに、父親の行状を
向かいの家や母親に言いふらしたりする上方流。東京流の駄々っ子のような金坊ではなくて、
子供の喋りが達者なところが違う。天神様に行く前に終わる「初天神」は初めてだった。

立川談春「長短」 先日一門会で聞いた「竹の水仙」が良かったので志雲を呼ぶことにした。
立川流にはこういう無名の強豪がいてまるで「キューバ野球」のよう。ちなみに落語協会は
セ・リーグで、落語芸術協会はパ・リーグ。「円楽党はというと…、“がんばれベアーズ”」
(なかなか真打になれない)志雲も笑志も要領が悪い。家元に歌と踊りがダメと言われたら、
真面目に習いに行っている。志の輔、志らく、談春いずれもそれ程踊れないし唄えない。
家元も「踊りなんか東京音頭でもいいんだよ」などと言い出して、「家元の周りを笑志と志雲が
東京音頭で練り歩いてる。『違う!こうだ』。一体どういう空間なのかと」
一方、聞いてるふりして何も聞いてないのが15年も前座の立川キウイ。「ハイ。ハイ。ハイ。
もう仰る通りです」馬鹿にしているのかと思ったら、大先輩の立川左談次師匠にも同じだった。
「ハイ。ハイ。ハイ」「隣の空き地に囲いが出来たね」「ハイ。ハイ。ハイ…」温厚な師匠が怒った。
一方「頭のいいキウイが志の吉。よく私が弟子を育てられないなんて言われるけど、私どころ
でないほどピリピリしていた頃の志の輔兄さんの一番弟子を務めただけに要領がいい」
あれ、談春師匠ひょっとして2ちゃんねる見てる?

ワールドカップのオーストラリア戦の時、競艇番組のロケに行っていたが「興味ない」と
言ったら番組スタッフがまじまじと見て「非国民!」「70年経っても日本は何も変わってない」
部屋に呼んだマッサージ師に「サッカー見ないの?」「私ゃ目が見えませんから…」
サッカーの裏で立川談志が出た「情熱大陸」、視聴率は2.8%だったとのこと。

釣りが趣味なのだが、どうも周りからそう見られない。気が短い方が上達するらしい。
「十人寄れば気は十色と申しまして…」と「長短」へ。談春師が気が短い短さんが似合う
というのは誰でも思いつく。では気が長い長さんをどう演じるのか、という関心が湧いてくる。
うろ覚えだが「長さんが与太郎になっちゃいけない」と言ったのは、この噺を十八番にした
故・柳家小さんだった。ただし、そのせいか特に柳家系統の人が演じると、小さん師匠の顔が
浮かんできて仕方がない、ということがある。名人芸恐るべし。談春師もそのあたりは意識
していたようでわざと「顔の丸い人は~」などと小さんのクスグリを混ぜて見せた。
人によっては見てるほうが苛立つほど長さんを遅く喋らせたりするが、談春師の長さんは饅頭を
食べに行くときの動作が思いがけず速かったりして緩急のメリハリがある。勿論与太郎ではない。
また何年かして聴くと長さん、短さんの印象が全く違っているかも知れない。

立川談春「桑名舟」 「だから教えない方が良かった」とサゲて一礼、「今日は珍しい噺を」
と続ける。私はこの噺を「鮫講釈」と思っていたのだが、落語の本には「鮫講釈」という項目が
無くて「桑名の鮫」「桑名船」になっていたりする。「桑名船」というのは「巌流島」の別名ととする
本もある。ネットで検索した限り、立川流の落語家が手がけることが多いようなのは、講釈好きの
家元の影響かもしれない。前段は旅の二人組が遭遇する設定だが談春師はアッサリと。
何年かに一度、渡し舟から鮫に生け贄を出さねばならないのだが、生け贄にされることになった
講釈師も確か名乗っていなかった。「私が生け贄に選ばれたということは私の芸が必要とされて
いないんでしょう」などとアッサリと運命を享受するのだが、最後に一席と始めた「総合講釈」が
凄かった。忠臣蔵、次郎長、源平合戦、昔話に童話、講談調で語ってゆくテンポと口跡の良さ
には惚れ惚れする。(船底をパンパン叩くから)蒲鉾屋かと思ったというサゲが蛇足に思える位。

立川談春「大山詣」 大山詣での旅の途中で喧嘩をしたら坊主頭にすると約束したのに、
喧嘩をして寝ているうちに坊主にされ、さらに置き去りにされた熊五郎。一足先に江戸に戻り、
仲間は死んだと騙して女房たちを坊主頭にしてしまうという復讐譚。
「普通、復讐劇は復讐する側に感情移入して見るので、目的が達成した時溜飲がさがるのだ。
しかし大山詣りに関しては、主人公に全く感情移入出来ない作りになっている。(略)坊主に
した当人達に仕返しをするのでなく、女房連を坊主にするという、じつに非道な男である。(略)
それも女房連を騙すのに、亭主は旅先で事故死したと言う。人の生き死には普通洒落では済ま
ない。この噺の後味の悪さは全てこの熊さんの人格にある。」(立川志らく『全身落語家読本』)
全くその通りで、以来私は「大山詣り」が苦手になっちゃった。談春師匠はテンポ良く進めて、
面白い一席だったのだけれど、聞き終わると「お怪我(毛が)無くっておめでたい」じゃ済まないだろ、
もう長屋にいられないなと釈然としないものが残るのだ。うーむ「昔はものを思わざりき」だなあ。
ついでに引用、「『きめしき』を交わすのを、五代目柳家小さんは、長屋を出発した後にしている。
これはそうでないと頭を剃る約束をしたのを女房たちが知っていることになり、熊公の嘘が
きかなくなってしまうからである」(延広真治編『落語の鑑賞201』)
これも確かにそうだ。ただしその演出だと、説明が長くなって間延びしてしまいそうだ。
by funatoku | 2006-07-05 01:22 | 落語 | Trackback | Comments(0)


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